スープのよろずや「花」

スープのよろずや「花」通信 はじめに(3)

死刑制度のない社会へ

  スープのよろずや「花」が届けたい「死刑のない社会にしたい」という3つ目の願いについて、「原発」と「戦争」については賛成だけれど、死刑は無くさない方がいいのではと、少なからずの方々から言われました。それは私が予想し覚悟していたようでもありました。

 「原子力発電」が今後革新的な技術の進歩で安全に供給されるものとなったのなら、その時は違う選択もありなのかもしれない、「戦争放棄」について、何らかの他の方法で今以上に食い止められる力を社会が持つことができたのなら、その社会にあった憲法について論ずることもありなのかもしれない、と考えたりします。しかし、私のなかでは、社会の有り様がどのように変わったとしても死刑はあってはならない、というのが動かしがたいものでありました。そして、人に伝わる言葉でその理由を表現することの難しさを感じながらも、この通信を準備する過程のなかで、私の願いはさらにゆるぎないものに変わっていきました。凶悪犯罪人に対する国家による死刑と、テロ国家に対する正義のための戦争という論理には共通項があり、戦争と死刑には密接な関係性があることを知らされました。

 又終末期医療に携わる医師として、尊厳死の問題は大きく、またそれは安楽死のテーマにもつながっています。大変に飛躍するように聞こえるかもしれませんが、積極的安楽死と死刑制度容認には共通する思考性があるとも感じています。

『・・・死刑について考えることは自分(たち)の生命のありかたを考えることだ、というのは、この意味なのだ。わたし(たち)は、自分(たち)自身が為すべきことを権力に代行してもらうことで、社会生活を円滑に、いや民主的に営んでいる——と思いこまされてきた。死刑制度は、わたし(たち)自身の生命にかかわることそのものを権力によって代行してもらう、もっとも極限的な制度にほかならない。この基本認識をどのように深化させることができれば、殺された側の、殺されたものを愛する側の心の中に届くような死刑制度のことばが発見できるのだろうか?』

「死刑の[昭和]史」 インパクト出版 の中で、池田浩士さんは、こう述べています。

  重いテーマですが、裁判員制度が始まった日本社会のなかでは、今一人一人にとって避けられないテーマとして向き合う必要が生じています。これからのこの通信が、その一助となれば幸いです。

2013年5月 スープのよろずや「花」代表 伊藤真美

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