スープのよろずや「花」

Vol.37 人が人を裁くとはどういうことか(3)

なぜ今、裁判員制度なのか?

神保: 今の日本で行われている、専門家が長い時間をかけて事実認定と刑期を決める精密司法を否定する根拠を、「時代の要請」だと推進派の人は言う。今裁判員制度を推進しようと考える人たちやその動機について、時代の何がそう言わせているのだと高村さんは考えるか。誰かにメリットがあるのか、あるいは、彼らなりの公共心から主張しているのか。

高村: 今推進派の方々が言っている「時代の要請」という言葉は、後から出してきたものだと思う。時代の要請というのは漠然としているし、変化するものだ。だから、大きく裁判員制度を変える条件に、時代が当たるはずがない。なぜこんなに拙速に、刑事裁判で、しかも重大な刑事事件に裁判員制度に導入することになったのか。非常に公正な立場、もしくは公共の精神に基づいて裁判員制度を考えるのであれば、当然民事のほうから始めるべきだったわけだが、民事は政府が絶対に手放さない。本当は民事裁判の方が、市民感覚を生かすべきところとして裁判員制度が適切だが、政府の壁を突破できないから、とりあえず刑事裁判でということになったのだろうと、私は理解している。刑事裁判を時代の要請に合わせるということが最初にあったのではないと考える。

神保: どうしても民事裁判を手放したくない政府の論理をおうかがいしたい。

高村: 民事裁判の中でも、特に行政訴訟だ。行政訴訟では、どんなにしても国あるいは行政府の責任が問われたことがない。たとえ公害裁判などで問われたとしても、20年、30年かかる。決してすっきりと責任が認められるわけでもなく、和解という形で落ち着く場合が多い。そういう形での、国と行政府の壁の厚さ、高さ。私は、これがこの国の一番の問題のところだと思う。
私たち市民が裁判に参加をして、いわゆる公共の利益について、私達の意識、私たちの希望を実現させるというのであれば、絶対に行政事件だ。行政事件で、私達の公共の利益が守られなければならないし、私たちの本当の公共の利益というのは、行政裁判でしか実現されない。しかしその部分は、当面崩れない壁だ。

作家・高村薫氏インタビュー

2008年11月25日 ビデオニュース・ドットコムより

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