スープのよろずや「花」

【学】2018.12.1 太田昌国さん講演会 その1

ウカマウ映画上映&太田昌国講演会    2018年12月1日(土)

上映した映画『地下の民』(ウカマウ集団、ホルヘ・サンヒネス監督、1989年)

★ウカマウ集団については、以下のサイトを参照

http://www.jca.apc.org/gendai/ukamau/rekishi.html

講演内容 1 拉致問題・領土問題・慰安婦問題

2 植民地主義と現代

◆はじめに

非常に長い映画をご覧になった後でお疲れだと思いますが、伊藤さんからはとても大きなテーマを与えられています。このしんどい映画を観た後にまたこんなテーマで話すのかなんて僕も思うし皆さんも思うでしょう。しかも今の映画を観て、いきなり「拉致問題」の話をしても何が何だか分からないと思います。植民地主義の問題から入っていこうかと思います。

僕が付き合っている、この映画を作った人たちは南米ボリビアの人たち。地図を用意していないのですが、ボリビアはペルーとブラジルとパラグアイ、アルゼンチン、チリに囲まれた、海への出口のない南米の真ん中にある国です。チチカカ湖という世界で最高位にある、ほとんど海抜4000メートルくらいの所にある湖がありますが、そこをペルーと半分ずつ領有していると言えば、だいたい地図で思い浮かべることができると思います。また、チェ・ゲバラの名前をご存知かと思いますが、彼が反政府ゲリラ闘争を指揮してこのボリビアで戦って政府軍に捕まって殺されたというのは1967年ですから、もう51年前の出来事ということになります。ボリビアはいま人口1,100万人の国で、全体としては非常に貧しい国の一つなので、映画産業が成立していたはずもありません。現在は35ミリのフィルムとか16ミリのフィルムとかいう時代ではなくて、デジタル機器の発達によって映像記録がごく簡単にできるようになりましたから、この十数年は随分状況が変わっています。いずれにせよ映画が産業として成立するような経済力を持った国ではない。そこで出てきたのが、ラテンアメリカでも、世界でもかなり有名な映像作家のひとりであるホルヘ・サンヒネスという監督です。彼は今、82歳だと思いますが、現在も元気で新しい映画に取りかかっています。僕らは上映収入を基本的に彼らに還元するようにしているのですが、数ヶ月前も次の作品のためのお金を送金したばかりです。ボリビアは非常に厳格な階層社会なのですが、ホルヘは特権的な白人エリートの出身です。ボリビアには先住民が多く住んでいます。ケチュアという民族とアイマラという民族の人たちが多いのですが、先住民族が総人口の60%位を占めている国です。あとはメスティーソといって、植民者であるスペイン人と先住民が混血した人たち、さらに、5世紀以上前に植民者、征服者として入ってきた白人の末裔たちが少数派として存在している、そういう国です。ホルヘ・サンヒネスはごく少数の白人のエリート社会で育ったけれども、映画を撮ったり上映したりする時になって、圧倒的多数を占める先住民の人たちに観てもらう、あるいはそれと向き合う映画を作らないとボリビアで映画を作る、あるいは上映する意味がないだろうと考えた。20代の半ばくらいだった1962年から実際に映画を作り始めるのですが、基本的に先住民を主人公にして作るのです。映画産業が成立していないと言った時におわかりのように、舞台俳優はそれなりにいますけれど映画俳優は存在していない国で、先住民を主人公に作るには、ロケ地の村の人たちにそのまま出て貰うという映画の作り方をしていた。60年代70年代というのはまだ東西冷戦のまっただ中で、ボリビアは軍事政権、もちろんアメリカが後押しした軍事政権が成立していて、彼は一時期国外に亡命を余儀なくされる。軍事政権の時代で東西冷戦の渦中にあるということで、はっきりとした社会的・政治的な意図をもつ映画を最初から作っていた。先住民の権利ということを考えて歴史に題材を取りながら映画を作り始めると、どうしても国内の支配を貫徹している少数の支配者たち、白人エリート、あそこは鉱物資源が多いので鉱山業で財を成した人たち、それに繋がる人たちが一貫して政治的なエリートになるのですが、それと19世紀以降非常に影響力を残しているアメリカ帝国の力、このふたつを相手にして、歴史に題材を取りながらそれを告発する映画を作ったり、先住民の様々な生活の在り方、価値観を撮ったりすることによって、白人社会、メスティーソという混血の社会との価値観の対立、意識の対立がどんな風に表れるかという作品を作っていて、かなりメッセージ性の強い映画です。それはどういうことかと言うと、スペインが植民地支配をするのは約3世紀、16世紀初めから19世紀初頭にかけての300年間です。後から触れますが、コロンブスの大航海が15世紀の末に行われて、それからスペインが主力になってラテンアメリカ全体を征服する訳ですね、それから植民地支配が始まる。植民地支配というのは非常に厳格な人種差別が貫徹された時代、スペイン人はキリスト教の圧倒的な影響力の下で征服事業をしますから、征服者たちにカトリックの僧侶たちがついていく、キリスト教の名においても征服事業が成される。その征服事業というのは、まず異教徒であり野蛮であると彼らが決めつけた先住民、インディオという言葉が出てきましたが、それらを虐殺する、とても酷いやりかたで虐殺することから始まったのです。5世紀前のことですから学術的にも数を特定する人は色々な説があるのですが、恐らく千万単位の人々が殺されている。特にカリブ海の島々では先住民族は全員亡くなった。虐殺とヨーロッパ人が持ち込んだ病気によって、抵抗体がない病原があって死に絶えたと言われている。そのうえで植民地事業が始まるわけですから徹底的に先住民を軽蔑し差別する、そういう世界として成立したわけです。人口対比でたとえ6割7割を先住民が占めていようと、それらの人々を徹底的に最下層に押し込めるという形で植民地社会は形成されたものですから、この先住民差別というのは現代にまで至っているわけです。今日の映画での具体的な例としては、アンデスの荒野を彷徨う学生運動の活動家が出てきましたが、彼は左翼であるけれども最終的に先住民の夫婦と言葉が通じなくて、最後に「くそインディオめ!」と言う台詞が出てきますが、あれは左翼活動家の中にも自分たちが先住民に対しては非常に差別的に振る舞うという時期が続いているを意味しています。ホルヘ・サンヒネスも、左翼の中にも人種差別主義的な考え方はあると書いている。ホルヘ・サンヒネスは明らかに左翼的思想の持ち主であると思いますが、自分の内部から出てくる自己批判、それくらい先住民族に対する差別意識は徹底して社会に染み渡っている。しかしホルヘに言わせれば、実はボリビアのような社会を変革するには先住民の自然哲学・歴史哲学、および人間関係の在り方、そうしたものに学び尽くすことによって我々は精神的な疎外状況を克服できる、と彼は固く信じている。ヨーロッパ的な人間が自然を征服しながら文明をより強固に作り上げていく在り方と全く対称的な、自然との共生関係の中で先住民族は自分たちの文化を育んできている。西洋的な在り方を対象化するために、人間は「個」として孤立して生きることはできない、複数の人間の、様々な人間との人間関係の中でしかひとりの個人は存在しえない。最後の軍事クーデターに抗議するために鉱山に行って先住民の農民たちが一緒に戦ってたくさんの負傷者を抱えて帰って来る、ああいう集団的な在り方が基本なのだというわけです。逆に、セバスチャンは、さまざまな経緯があって村を追われたが、最後には「個」として孤独な踊りを踊って死んでいく。このふたつの光景を何度もくどいくらいに対称的に描いたというのは、「個」として生きざるを得なかったセバスチャンの疎外状況と、あくまでも集団的に生きていく農民たち、あるいは鉱山労働者たちとの対比の中で、問題のありかを浮かび上がらせようとした、そういう意図があった訳です。そういう風に先住民族の価値観をどのように浮かび上がらせることができるかと、いうのが彼らの一貫したテーマであった。

 

◆『地下の民』の世界に分け入る

ラテンアメリカ諸国がスペインから独立したのは19世紀前半です。1810年から30年くらいにかけて行われて、それから今は300年経ったという段階です。アジアやアフリカの植民地支配を受けた国々からすれば独立は随分早かったのですが、独立といっても300年間続いたスペイン植民地支配ということを考えればその間に実現された社会構造としては、やはりスペイン人の血を引くエリート層がラテンアメリカには形成されるわけです。ですから独立といっても先住民が主体となった独立ではなく、既に現地に形成された白人エリートを主体とした独立だったので、また独立と言っても先住民の視点からすればまだまだ苦難の道は続く、現代まで続くということも頭に入れておかなければなかなか問題が見えてこないということになる。

そこの問題はそれくらいにしておいて、この映画の現代的な背景を考えてみたいと思います。1989年の制作ですから、いまから29年前の制作なのですが、時代背景としては軍事政権の時代であるということと、セバスチャンが内務省の秘密警察の面接を受ける時に履歴書を読んだ係官が経歴は何だと聞いて、ニャンカウアスーという地名を言ったのですが、それはチェ・ゲバラたちの部隊が戦っていたアンデスの山間部の地名なのです。1960年代後半、お前はニャンカウアスーでゲリラと戦っていたのだな、共産主義は悪いことだと十分わかっているなと言って秘密警察に入れて、左翼活動家の家を襲う場面になっていくわけです。明らかに1960年代を十分意識した映画である、しかもあのような事態というのはボリビアに限らず軍事政権の下では恐ろしいことによくあり得た。捕まえた活動家に自分の遺体を埋める穴を自らに掘らせて、そこで銃殺して埋めてしまうということはアルゼンチンでも報告されていますし、僅か半世紀前には有り得たことだった。キューバ革命に非常に刺激を受けて、ああやれば今の腐りきった独裁体制を倒すことができると思った若者たちが中心となって、非常に多くの国々で武装した形での闘争が展開されていた、しかしうまく成功した例はほとんどなくて、みんな潰されていった、そういう時代をひとつの背景としています。それから同時にグローバリゼーションという世界をひとつの原理で経済的に支配してしまう、これは端的に言えば社会主義崩壊の後の問題になりますから、市場原理主義によって、マーケット、市場で勝ったものが世界を支配していけばいいというそういう資本主義の最も根本的な原理に基づいたグローバリゼーションの時代が迫ってきている、そういう時代です。セバスチャンが村長の時に仲介者に連れられて首都的な街であるラパスの瀟洒なビル街の多国籍企業の事務所に訪れて何か話し合うという場面がありましたが、あの段階は、東西冷戦の時代がまだ続いていましたから、ラテンアメリカの場合はキューバ的な社会主義の在り方に対する優位性を示すために、国際金融機関やアメリカなどの資本主義超大国はたくさん軍事政権に援助を行うわけですね、財政援助を。

非常に貧富の差が激しい国でインフラ整備が行われたり、瀟洒なビル街が建ったり、国際的なホテルチェーンのすばらしいホテルができたり、証券会社や銀行の事務所が綺麗に建ったりするとか、そういうことが行われる。しかし貧富の格差を是正するためにお金は使われず、いわば強い力を持った大企業、特に多国籍企業らが進出している基盤整備という形でのお金の使い方をされるわけで、それは民衆には還元されない。それぞれの国が、例えばボリビアであれば鉱物資源によって、あるいは農業国であればバナナやコーヒーの輸出において外貨を稼いだとしても、稼いだ外貨は国内の民衆に還元される前に多国籍企業や多国籍金融機関が融資した金の返済に当てさせる、そういう条件付きでお金を貸しますから、一向に経済的には状況は民衆的な視点からすれば良くならない、そういう現実がある。そういうことも今日の映画の背景には描かれているということになります。

まずはこのくらいにして、話し合いたいというか質問でもいいですし何かあったらお聞きしたうえで次へ展開してみましょうか。

◆質疑応答

【質問】映画の中で先住民、征服者であるスペイン人、白人という分け方なのですが、言語のことでお聞きしたい。最初の方で支配者たる白人が川を越えるシーンが翻訳されていなかった、何かしら意味があると思うが全体を通じてスペイン語とアイマラ語?が混在していて、映画なので脚本があると思うのですが脚本においてスペイン語とアイマラ語の分け方、意図的に配置したのか。同じ村の中でも片やスペイン語、片やアイマラ語を話してやり取りしているシーンがある、意図的に言語を配置したのかと見受けられる。制作にあたり言語と先住民族の自立、背景をあぶり出そうとする時に意図があったのかお聞きしたい。

【太田】うまく説明できるかわからないけれど、冒頭の川のシーンで話されている台詞は、先方から送られてくるシナリオの台本リストでは、元々採用されていない。あれは場面そのものが全てを物語っているので、台詞を拾わなくてよい会話であるという風に彼らは解釈していると思います。だから、私たちも求めることはなく、場面が物語るだろうとであえて聞かなかった。

自主上映を開始した40年近く前には、僕の周辺にもアイマラ語やケチュア語を理解する人はいなかった。もちろんスクリーンでは、先住民族の母語も話されている。だが、彼らから送られてくる台本のリストは全てスペイン語になっている。字幕の問題を技術的にいうと、画面で語られているアイマラ語やケチュア語と、台本リストの文字面で読んでいるスペイン語をシンクロさせるのはとても難しい。現地で買ってきているケチュア語やアイマラ語の辞書を使って「音」でいくつかの重要な単語を聞き取って、字幕的には合わせるという形でやっている。

彼らは先ほど言ったように先住民の文化表現を非常に大事にしたいといったことは基本的な原則としてあるので、そこはゆるがせにせずして使うべき所はきちんと選択的にやっているだろうと思います。だから、先住民族言語の世界とスペイン語世界、英語世界との会話の時には、バイリンガルの話者、先住民の側にも或いはゲリラが出て来た時にはゲリラの側にもいて、それが媒介として通訳的な立場に立つという形をとっている。だから、この映画に付けた字幕の問題の反省点は、アイマラ語とスペイン語を書体で区別すれば良かったのですが、当時の僕らの配慮が足りなかったですね。

【質問】なかなか複雑な構造をもつ映画だったので、ひとつひとつ理解するのも難しいですが、一番大きく疑問に思っているのは緑の仮面の踊りです。

私が全体を通して感じたのはもう既に先住民としてのアイデンティティを無くしてしまっているところから始まっている、つまり回帰する場所をセバスチャン彼自身が持っていないし、民族としても失われてしまっているのではないかと大きな印象として残った。何故かというと緑の仮面の踊りの衣装、緑の仮面は西洋的な作りだったし、いくつかがそうだった、楽隊に出てくる人たちのマスク、あれは殆ど西洋の演劇のマスクに私は見えました。そして衣装、けっして原住民の人たちの衣装ではないだろうと。セバスチャンが首都に行って自分の名前を変える、でもセバスチャンという名前も既に原住民の名前ではなくスペイン人が入ってきてからの彼らの名前である、ということで最初から失われてしまっているという印象が強く残った。緑の仮面の踊りは本当に現地である伝統的な踊りなのか、それともこの映画のために作られたフィクションとしての踊りなのかをお聞きしたい。

【太田】この映画もそうですが、彼らが映画を作るときにはどうしても先住民の村でのロケが必要であり、その村の人たちに登場して出演してもらうことが必要になるので、ホルヘは構想を考えたらある特定の村に行って、今日も老人が出てきましたが、精神的な支柱になる人が必ず現在も存在しているので、その人の所へ何度も通ってその村が歩んできた在り方を学びつくし、そこでの表現に基づいて基本的にシナリオを作っているので、今も続いているかはわからないけれど、30年前これを撮影した村にはこのような言い伝えとして語ることのできる人が存在していたと思います。あのような踊りが行われていた時期があった、それを前提として組み立てられている。確かに5世紀以上の歴史ですからヨーロッパから入ったたくさんの影響が現在を生きている先住民の中には及んでいます。メキシコでもペルーでもチリでも確実にそうます。それらを取り入れながら自分たちのものにしているところも確かにあるので、そのような意味では、純な、ピュアなものとしての先住民の全てが今に維持されている訳ではなく、そんなことを考えてもそれは幻想に過ぎないということ、今を生きる人たちにとっても外部からの介入者であるホルヘにとっても、それは前提であると思います。

【質問】セバスチャンが村長として過失を犯したとき、村人は村の集会で死刑にしない。『第一の敵』では、ゲリラと農民の人民裁判で、地主たちを死刑にする。死刑にしたあと、村人の顔は喜んではいなかった。もと村長セバスチャンは自分の罪を購うための死の踊りを踊るために自発的にやって来た、覚悟してきた。それに対して死刑にしちゃえという意見もあったと思う。村の長老みたいな人がセバスチャンの気持ちを分かってくれと言う発言があって、そして死の踊りで倒れる、最後葬式を出す、そのあとエンディングでセバスチャンの顔が写しだされる、その顔がすっきりしていると言ったら変だけど、ある種の謙虚な誇り感、そういう描き方がされている。どちらが救われたか分からないのですけど。間違いを犯した人間に対してどういう風に。

【太田】『第一の敵』は1974年制作なのでこの作品の15年くらい前です。ボリビアは近代国家としては全体的な刑法、裁判の規定などもある訳ですが、先住民の村は「国家の中のくに」というか、独自の慣習法で自分たちの内部で起こった犯罪・出来事を裁くということをやっている人たちがいる。僕もコロンビアかどこかの先住民の村で、15戸くらいの小さな村でしたが、村の真ん中に牢屋があるのです。独自のその村だけの。何か悪さをした人を村の裁判で裁いてそこへ暫く入れておくようなところがあって、今日セバスチャンが入っていた、上半身裸で入れられていたのも、柵も何もなかったが、そういう場所のひとつだった。ある種自治的な機能を先住民の村は持っている、そこでは今度帰って来たら石責めで殺すぞという言い方がありましたが、基本的に死刑ということは考えられない、それほど酷い犯罪が起こるわけでもない、人を殺した訳でもないということの裁き方であったと思います。来年1月に上映するのは『第一の敵』という映画ですが、この時は地主を捕まえて人民裁判で死刑判決を下し銃殺するというのがあるのですが、あれは現実に当時ラテンアメリカで行われていたゲリラ闘争のひとつのエピソードから取った物語構成なので、そういう意味であそこでは実際に行われた現実を背景として描いているのでそういうこともあるし、あの時は都会からやって来たゲリラが主導した人民裁判だったので彼らにとってはあの時代、こんな酷い犯罪を農民たちに対して行ったものは死刑に処せられて当然だという、そういう意識もあったから、あの判決自体は先住民が主導で行った判決というよりは、都会の左翼ゲリラの価値観と主導性の下で成された判決ということで、今おっしゃった違いが出てくると思います。

いったん先住民族アイマラとしてのアイデンティティを喪失した人間の再生の物語ですから殺す訳にはいかないし、最後は古い自分を見送る形で最後のショットが出てくるわけです。アイデンティティの死と再生の物語ですから、そういう物語構構成の中ではあのような描き方になるのが当然だろうと思います。

【質問】300年位支配されて今も白人との違い、厳然とあるのでしょうか。1991年頃にボリビアに行ったことがあるんですが、その頃でも白人は立派な家だし、農場に遊びに連れて行ってもらうと牛を殺して接待してくれたが全く階級が違う。この人たちはテレビやインターネットが普及してきて人間みな同じ命だと近い将来思うのではないかと。白人は子どもをアメリカ、ヨーロッパの学校に行かせ、そこでは卒業しないとか、生活のランクが違う、全く違うというのがずっと続く訳がないと僕はその時思ったんですが、これだけ例えばアメリカも大統領が黒人出身のオバマさんだったりとどんどん育ってきている、それでも全く違うと白人と原住民が当たり前に違うと思っているのでしょうか。

【太田】そう考えている人も支配層に多いです。ラテンアメリカ全体で軍事政権が倒れ始めるのが1980年代に入ってからです。国によってちょっと違いますが、民主化の過程があって、80年代にはいくつか例外があったかもしれないが、ボリビアを含め軍事政権が全部倒れるのです。軍事政権の時代に、新自由経済政策という大国主導・国際金融機関主導の政策のおかげで、下層の民衆は酷い目に遭うわけです。ですから新自由主義政策、軍事政権時代に取られたこの政策がたくさん金はつぎ込まれたのに自分たちの生活向上には何も反映されなかった、ただ借款だけ残った、という現実を知った人たちの運動が非常に活発化する。90年代から21世紀初頭にかけて、今また逆流がありますが、ラテンアメリカの非常に多くの国々で、新自由主義に反対する、アメリカの世界支配に反対する、そうした政権がたくさん成立した。民衆運動も非常に強くなった。ボリビアにもそれが反映して、今から12年前の2006年の大統領選挙で、驚くことにエボ・モラレスという正にアイマラ出身の人が大統領に選ばれたのです。今もなお、それはそれで問題なのですが、大統領を続けている。これはボリビアの植民地時代以降の歴史を知っている人間からすれば驚くべきこと。先住民が一般の大統領選挙で選ばれるということは。

ただ、この予兆はあった。ホルヘ・サンヒネスやプロデューサーのベアトリス・パラシオスが、ずっと90年代に入ってから手紙でも僕らに知らせてくれたんですが、ボリビアはずいぶん変わりつつあると。先住民の国会議員もそれなりに増えて、彼らは自分たちの給与、議員報酬をこれは一般の市民の給与からすると非常に高いから一定額をプールして、それを別なことに使うというか個人で使わず皆のために使う、というモラルの高い先住民議員が現れてきて、あれだけ腐敗しきっていたボリビアの政治風土が変わりつつあると。エボ・モラレスはそういう議員のひとりだった訳です。彼はコカ栽培農民の運動の指導者だった。今の映画でも老人たちが出てくると、コカをどうぞと交換する場面がありました、「これは年代物だよ」、「おいしい」という会話がありましたね、コカインの原料になるということで目の敵にされているコカというものは、実はアンデスの先住民文化の中では彼らの文化的な在り方として生活に根付いた使い方、乾燥させてポシェットに入れて、人とどこかで出会った時にお互い交換して噛むというひとつの文化の在り方なのです。鉱山労働者が辛い坑内労働の時に頰に含んで餓えとか労働の辛さを少し麻痺させる、緩和させる働きもするのです。鉱山労働者に会うと、頰がぽっこり膨れているのです。ずっと毎日のように何十年も頰に含んで噛みながら鉱山労働に従事しているから。麻酔的な働きもあるし、そういう文化に根ざした使い方をしているものだからコカは一定の需要がある。

そんなこともあって、コカを麻薬の原料だと、だけ捉えるようでは半分しか見ていない。今大統領になったエボ・モラレスはそのコカ栽培の労働者のリーダーとして国会議員になってやがて、一回負けたのかな二回目の大統領選挙で勝って今に至る。僕は彼が就任してから一年目の2007年に久しぶりにボリビアに行ったことがあるのですが、その後の様々なニュースを読んでいても確かに先住民が大統領になるということは人々の社会意識が変わっていくひとつの大きなきっかけにはなると思う。今それがどの程度まで表れているかというのはちょっとよくわかりませんが、いくら何でも酷すぎるということで様々な小さな変化であれ続いているのではないかと思っています。

 

◆植民地支配という問題

ではまた、30分ぐらい話を続けて、最後にまとめたいと思います。

植民地主義の問題を考える時はどうしたって欧米植民地の問題を考えなければならないのですが、スペインは世界に先駆けて広大なラテンアメリカ全域を支配する植民地主義を実践した訳です。同時にイベリア半島の国であるポルトガルもそれなりに航海術を発達させた15世紀後半から16世紀のことがあるので、ブラジルだけはポルトガルの植民地になって現在ブラジルの人たちはポルトガル語を喋っているということになって、それがまず世界における植民地主義のきっかけです。ところが、スペインもポルトガルもその後世界を制覇するような形の植民地主義を実践するまでの力はなかった。急速に競争に負けて、その後イギリス、オランダ、ベルギーなど北ヨーロッパの国がイベリア半島の2つの国に替わって世界を制覇していく、そういう植民地主義を実践するわけです。勿論そのあと、フランス、ドイツ、イタリアなども競って現れるわけですから、僕らが歴史で19世紀のアフリカの地図を学ぶと直線の国境が走るような形で強制的にヨーロッパ列強によってアフリカ全土が分割されてしまうという地図をよく見るようになるわけです。15世紀後半から始まったヨーロッパによる植民地支配というのは、もちろんアジアも含めてそれらの手が伸びてきて、イギリスはインドやキスタン、バングラディッシュ、スリランカを支配し、フランスはインドシナ半島、ベトナムやカンボジアを支配するわけだし、オランダはインドネシアを支配する。オーストラリアは最初はイギリスの囚人たちを島流しにする場所として使われてイギリスによって植民されていくという、そういう世界全体がヨーロッパ列強の植民地とされていくという時代を迎えるわけです。それがようやく解放に向かうのはラテンアメリカの場合は19世紀前半ですから200年前になりますが、アジアやアフリカの場合、アジアは1945年、日本帝国の敗戦を契機にして様々な国々が独立し、インドはイギリスから、インドネシアはオランダから、ベトナムはフランスから解放される、そういう過程を辿る。アフリカの場合は1960年のフランス植民地から西アフリカ諸国が大量に独立する過程がありますが、1960年以降の過程の中で独立する国が多いわけですから、アフリカの国々の独立はつい50年数年前、58年前とか60年前とかになっていく。いったん植民地支配を受けたアジアやアフリカの国々は独立してからまだ100年も経っていない、そして様々は問題に直面しているということになる。そういう意味ではまだ若い歴史を刻みつつあるということ。アパルトヘイトから解放された南アフリカのダーバンという街で、2001年に国連の主催で「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」というのが行われた。この時は政府レベルの代表と民間レベルNGOの代表と色々な人が世界各国から集まったのですが、ここでは奴隷制の責任、植民地支配の責任、それを今の段階でどう考えるかということが討議された。奴隷制の犠牲になった国々、もちろんアフリカの国々が主体ですが、それらの国々が奴隷貿易の責任を今の段階でどう考えるかと問題提起をした、植民地支配の責任を今の段階でそう考えるかという問題提起を行った。それに対し、それを加害側として実践した欧米の国々は、今さら4世紀、5世紀前のことを言われたって、あの当時はそれをやるのが当たり前だった、そういう価値観のある時代である、それを現在の価値観で裁くのはいくら何でも非歴史的だろうという反論を行った。とうとう噛み合わないまま討議は残念ながら終わってしまった。しかしこれは僕の観点からすると非常に画期的な話であって、犠牲となった国々からすれば、例えば奴隷貿易というのは主に西アフリカ諸国、西アフリカ地域から行われた。ラテンアメリカを征服して先住民を大量に殺してしまったスペインは、植民地支配を行うための労働力をどうするかという問題に直面した。アフリカには屈強な黒人の若者がいると、あの連中を連れて来ようと言って奴隷制が始まる。奴隷を輸送する船を建造しなければならない。それはスペインを蹴落としたイギリスの造船技術によって、奴隷を運ぶ船が造られた。西アフリカから1000万人以上の若者が16世紀から18世紀にかけて連れ去られる。それだけの人数の若者が連れ去られたということは、現地の社会は崩壊状態になる。ある特定の年齢層の人たちがそれだけ多数、だんだんといなくなる、あの劣悪な条件の奴隷船で運ばれてラテンアメリカ各地に連れ去られるということは、現地社会は、人口構成として崩壊することを意味するわけですから、アフリカの社会はその影響力を何世紀もの間、堪え忍ばなければならなかったということを意味する。カリブ海の国々とかブラジルとかベネズエラとか、アフリカ大陸と向き合っているラテンアメリカの国々に黒人人口が圧倒的に多いのはその直接的な結果である。キューバ、ジャマイカ、ハイチ、黒人の人口が圧倒的に多いです。植民者としての白人はもちろん居るわけですが、そういうことを意味する訳です。また植民地支配とか奴隷制というのは後世にまで圧倒的な影響を与え続けるのだから、何世紀後であってもやはりその罪は問われるべきではないかという考え方はひとつ成立しうる。そういう場から被害国の側は問題提起を行った。その問題をどう考えるかというのが今後もあらたに問題になっていくだろうと思います。それは繰り返し色々な国で、ベルギーでもオランダ、ドイツ、フランス、イタリアでもその国々によって支配された被害国が様々な形で問題提起を行っている、そういうことになります。

これは植民地支配とは違いますが、オランダ鉄道がユダヤ人をポーランドのナチスの強制収容所に向けて、オランダに逃げていったユダヤ人を運んだという事実があった。同鉄道は、70年有余経った今になってその罪を認めた。アンネ・フランクもそうだったのですが、オランダ鉄道が補償するという記事が小さく2、3日前に出ていましたが、それも今からすれば遥か過去の出来事になるでしょうが、余りにも酷い非人道的な、人権に関わる罪だったので、それを償うというのはある意味国際的な基準になりつつある時代です。植民地支配や奴隷制の問題を今生きている人たちは直接的には責任を、自分がやったことではない訳ですが、一つの国民国家としては先祖がやってしまった、被害者の側はそのマイナスを背負って現実を生きていくということが何らかの形で明らかな場合には、一体その問題をどう捉えるか、ということが今は問題になってきている、そういう世界史の段階であるというのは、この後の話を考える上で頭に入れておかなければならない時代になったということですね。

 

◆日本の場合

主催者が設定されたたくさんの問題を考えるために、急に日本の問題にいきたいと思うのですが、日本というのはご存知のように、明治維新以降アジアで唯一、今考えてきた植民地主義を実践した国として近現代史を歩んできた、そういう特異な国である。そういう意味では明治維新政府は、あくまでもモデルを欧米において、欧米諸国に学べと、これと同じような形で新しい国家の運営を行おうという目標を設定した。それを端的に表現する言葉が「殖産興業」、産業を興し、「富国強兵」、国を富ませて軍隊の力を強くする。これはまさしく欧米資本主義列強が歩んだ道であった。

お手本としての欧米列強は、アフリカについては、イベリア半島から陸地を見ながらだんだん南に下っていくのが当時の航海技術としては初期的な段階でも可能だったので、あそこには自分たちには未知な地域があるということはわかっていた。しかしアジアというのは内陸部の旅を通して、インドとかジパングというのがあるらしいと分かったが、具体的にはつかみどころがなかった。次第に航海技術が発達し、コロンブスは未知のアメリカ大陸に行き着いた。これがアジアか、インドだと思い込んでしまった。このように何かの技術がうまく発展するということは、自分たちの世界が広がっていくことに直結し、それを色々な産業分野に適用すれば、殖産興業というのは、ある国が飛躍的に経済的な力を付けていく上で決定的に重要である。それは同時に海外に出て行くということも意味するので、それを保証する、担保するためには海外を征服する軍事力も同時に身につけなければならない。まさにそれをイギリスはやったじゃないか、オランダやベルギーもやったではないか、だから、とうとうイギリスは世界の7つの海を征服するような強大な軍事力を整備することによって、アジアにもアフリカにもオーストラリアにもカリブ海にも、そして南米アルゼンチンのフォークランドという地域にもあれだけの支配力を伸ばすことができた。19世紀半ば、1830年くらいのダーウィンの旅行もイギリスの軍艦に乗ってやる。彼はブラジル沖、アルゼンチン沖、チリ沖を通ってあの有名なガラパゴス諸島まで行き着いて、ダーウィンの一つの大きな業績を表すことになる。軍事力の発達というのは色々なところにその国が発達していく上で、はっきり言えば海外に侵略していく上で大きな力を持つ。ヨーロッパの国々は躊躇うことなく当たり前のことだと、当時の価値観では帝国主義的な進出は、力の持った国なら当たり前のようにやることができる、誰も土地の権利を主張していない無主地、先住民族は土地というものは共有物だと基本的に世界のどこでも考えていますから、これは自分の所だと主張しないわけです、そうするとスペイン人もイギリス人もフランス人も、現地にいてもその人たちが土地の権利を主張していないから、では自分の土地だと権利を主張したらそれは自分のものになるという極めてヨーロッパ中心主義の考え方で世界各地を征服したわけですから、自分が発見したところ、自分の土地だと占有したところはもう自分のものだと、そういうことで植民地支配を広げていく。

それを明治維新国家はモデルとした。江戸時代、鎖国をしていてペリー艦隊にやられたのは砲艦外交です、浦賀に来たのは軍艦ですから軍事的な脅しによって当時の幕末の政府は開国を余儀なくされた。しかし、いざ開国して明治維新国家ができた時にその新しい日本国家は何をやったかというと、同じ砲艦外交、軍事力によって韓国を脅しつけるという外交を手始めに始めた。僕は北海道の生まれですが、蝦夷地というアイヌの人々の土地を、明治維新の翌年1869年には日本国家に包摂して北海道と名付けた。父も母も元々北海道の住民ではなく、何十年か経ってから移住した人間なのでそういう意味では植民者、コロンという立場に僕自身は立つ。それから10年後、1879年には琉球処分という恐ろしい言葉がありますが、琉球列島も日本国家に包摂した。蝦夷地は松前藩という江戸幕府の一つの藩が行って支配していた地域もありましたが、とても全域を支配している時代ではなかったし、琉球も島津藩との様々な絡み合いがありましたが江戸幕府が政治的に支配していた訳ではない。まず手近な北と南を植民地化することから明治維新国家は始めて、その後次第に日清戦争や日露戦争を始めて、これに勝利すると植民地を獲得するということになっていく。まさにヨーロッパに倣った対外進出を、近隣諸国から始めていった。第一次大戦の時も日本は参戦し、「敵」側であった敗戦国のドイツからパラオなどの「南洋諸島」を奪う。中国の山東半島がドイツの管理下にありましたからその権益も取ってしまう。ロシア革命が起こるとシベリア出兵をしてロシア革命を潰そうとする。こうして年表を作っていくと、明治維新国家はとりわけ1894年の日清戦争のあと、殆ど戦争に次ぐ戦争を行って、やがて30年代から中国侵略を始めるということになってきます。32年には関東軍が展開して満州国という傀儡国家を作ります。これも清国の領土ですから、そこに軍事的に侵攻して、1911年の辛亥革命で廃絶された清国の皇帝を傀儡国家の皇帝にして満州国を造る。数日前に亡くなったイタリアの映画監督が、『ラストエンペラー』という映画を作って、この溥儀の一生を描きましたね。それから最終的には中国侵略が拡大する中でアメリカ、イギリス、オランダなどの包囲網が強まって、とうとう41年の真珠湾攻撃によって対米開戦まで行ってしまうという自滅の道を選んでいくわけです。これはある意味で自業自得ともいえる自滅の道ではあったわけですが、真珠湾攻撃に焦点を当てて考えてみるとアメリカとだけの戦争になってしまうので、あの戦争の捉え方として非常に間違った、ゆがんだ形になってしまう。どうしてもあの戦争は日本のアジア侵略から始まった、植民地支配の延長上のアジア侵略から始まったのだと、その帰結であったという歴史観をきちんと持つためには、1894年の日清戦争以降の半世紀の歴史、非常に酷い戦争をアジア諸国で繰り広げた、それが戦線拡大する中でベトナムも一時は軍事支配を行ったし、インドネシアも軍政支配を行った。これは東ティモールまで行ったし、戦場はオーストラリアまで展開した。東アジアのみならず東南アジアから広く南太平洋まで戦域にするような戦争だった。

だから水木しげるの戦記物の漫画が有り得るわけで、彼は南方戦線に派遣されたからあの漫画が成立する。中島敦という作家も南方に派遣されたから彼の文学世界があるわけで、たくさんの人たちが戦争の中で生きることによって様々な表現を残しているわけですから、そのような関係として物事を見ていかないならない。戦後の日本は、アメリカとの沖縄戦とか東京を含めた大都市に対する空襲とか、広島、長崎の原爆とか、そうしたアメリカとの戦争で負けたという意識を持って戦争を振り返る、どうしてもそういう側面が強くなるので、それはひとつの面ではあるけれどもあの戦争の全部の面ではないという歴史意識をしっかり持たないと、アジアとの関係修復は今そうであるように、なかなかできない、ということになるだろうと思います。

ですから、日本の植民地支配というのはそういう観点を持って振り返ることが必要ということと、無残な戦争の結果、私たちは戦後、憲法9条というものを得て現在に至るまで、憲法制定が47年ですから71年間の戦後史があるわけですが、ここで考えなければならないのは、日本の戦後史の裏面にはアジアの戦後史がある、そういうことだと思う。その時気をつけたいのは、今くどいくらいに強調しましたように明治維新国家の戦前史というのは他国を、近隣諸国を植民地化したり侵略したり戦争を拡大して軍政支配を敷いた。アジアにとっては南太平洋まで含めた広大な地域にとっては、日本はどう考えても加害者として振る舞った。そういう歴史であったということをくどいぐらいに繰り返さねばならないと思う。その上で戦後史はどうだったかというと、日本は9条のお陰で様々は戦争に直接的に巻き込まれることはなかった。しかし1952年サンフランシスコ講和条約で占領支配を脱して独立した時には、講和条約と同時に日米安保条約という軍事同盟を強いられた。その日米安保条約は今に至るもこの国を支配している。ご存知のように東京、関東地域の航空管制は米軍によって支配されていますから、羽田空港や成田空港を使う民間航空の飛行ルートというのは米軍が支配している空域によって非常に厳しく制限されている。首都圏がとりわけ大事だというのはおかしな考え方だと思いますが、国家主権の問題としては首都圏の空域が戦後73年経ってなお、米軍の圧倒的な制限の下に置かれているというのはとてつもなく酷い話であって、それは米国政府の態度だけによるものではなく、それが当たり前だという外交をやってきた基本的は自民党の絶対支配にあった戦後史の大きな歪みだと思う。トランプの言うとおりにすさまじいお金を使って、せっせと中古の兵器を買っている安倍政権の現在の姿を見れば、それが今なお続けられている外交防衛政策であるということが見えてくる。

しかし日本の「平和」というのは、その安保条約を担保として成り立っている。そういう意味では、日本は「平和主義」を貫徹したわけではないということを戦後史の振り返り方として考えておかなければならない。日本の戦後経済史を考える時には、1950年から53年の朝鮮戦争、65年から75年のベトナム戦争、その戦争を特需景気として経済復興が成し遂げられたというのが戦後経済史の常識です。あれだけ焼け野原となった1945年8月段階の日本の経済復興が、1950年代前半の朝鮮戦争と60年代から70年代にかけてのベトナム戦争でどれ程日本経済が復興を遂げたかということに照らして考えた場合に、自分たちがかつて植民地支配をしたり軍政統治を行った地域の内戦という、あるいは戦争という不幸に基づいて経済復興が成し遂げられたということを考えないとならない。日本は9条のお陰で、「平和」のうちに戦後史を歩んできたという捉え方が非常に一面的であるとわかると思う。そのアジアがようやく内戦の過程が終わった、或いは韓国のように軍事独裁政権を脱した、フィリピンのようにマルコスという腐敗しきった、アメリカに支援された独裁政権を脱したというのは全部1986年とか1987年です。今から僅か30年前です。ですから例えば金学順さんという、旧日本軍の慰安婦として働かせられた人が日本国家を提訴したのは1991年です。自分はかつて強制的に慰安婦として働かせられてその謝罪も日本国家からの賠償も受けていない、何とかしてくれと言って訴えはじめました。そのあと台湾の女性、中国の女性、朝鮮民主主義人民共和国の女性、インドネシアを植民地支配していたオランダの女性、その人たちが自分たちは日本軍の慰安婦として働かせられたと言って次々と提訴したり声を上げたのは、そのキムさんの1991年の提訴以降です。ようやくその人たちは口を開くことができるようになったのは、日本の敗戦から45年も経った20世紀も末になってからだった。

それは「慰安婦」ということであれば、社会に戻ってとても恥ずかしくて口に出すことができなかった、それはある意味で自分の国に戻ってもそんな「汚れた仕事」をしていたのか、強制されたと言って通じるような時代ではない、自分が名乗り出るのも恥ずかしいという、そういう境遇にいた人たちが名乗り出てくるというのはそれだけの勇気が必要であった。時代が変わってそのような人権に関わることは、レイプされた女性たちがMe tooと言って運動を始めているのもこの現代になってからの問題ですから、そういう立場の女性が名乗り出ること自体がなかなか勇気のいることであった。戦争犯罪としての「慰安婦」問題というものがそういう形になったのはここ30年の時代の中の変化なのです。ですから、その間韓国でそのように判決が出ている徴用工の問題についても、あれは自分で働きに来たのだとか色々な言い方をする人たちがいますが、国家総動員法が公布されて以降は、当時は台湾も朝鮮も植民地であるということで、日本人と同じように徴用されて様々な企業で働かせられる、それが戦後日本では大企業として存続している、その事実に照らして戦争であれだけ富を蓄積している、植民地支配によって富を蓄積した大企業が日本では相変わらず大企業として存在している、あなたたちの植民地支配の責任はどうなっているのですか? 戦争責任はどうなっているのですか? という意味での問い掛けなのです。それが「65年の日韓協定で終わっている」と主張するならば、どういう論理でそれを成り立たせるのかというのは、もっと真剣にこの社会が向き合わなければならない。特に戦争責任も植民地支配責任も痛感していない、その程度の歴史認識しか持っていない現在の政権の人たち、日本会議のメンバーが大多数を占めている現在の政権を担う人たちの歴史認識が、通用するわけがない。これからこの問題が大きくなるにつれて、そういう展開を遂げると思います。

戦後日本というのは、確かにこれだけの歳月が経ちましたけれど、1950年代に問題となった賠償協定、戦争犯罪を巡る賠償協定というのは、かなり当時の水準から見ても低い線で抑えられている。これは勿論米国の介入があったのです、日本を反共の砦にしなければならないというふうに、アメリカは中国革命や朝鮮戦争を見て思いましたから、日本の占領政策を急激に変換させた。あれだけ怖い軍国主義は復活させないために、9条も積極的に制定して日本社会もそれを歓迎する意思があった。しかし反共の砦にするためには武装させなければならないということで、警察予備隊も作らせ、保安隊にし、自衛隊にし、現在のこの強力となった軍隊がある。日米安保と自衛隊と、もう9条を吹き飛ばすような、9条の精神を蔑ろにするような現実が残念ながら作られてしまった。これはこのようなアメリカの方針転換があった。アメリカは日本の経済復興のスピードをあげるために、産業的に強くして十分反共の砦として防波堤となるように、アジア各国に圧力をかけて日本にあまり膨大な額の賠償を要求するな、その分はアメリカが面倒を見るからという政策を行いましたし、日本は必ずしも自分たちの戦争責任を痛感した戦後史を歩んできたわけではないというのは、戦後史を振り返った時に残念ながら僕らが認めざるを得ない現実だろうと思います。

今、そんなことを何も痛感しない、かえって僕が先ほどから述べてきた戦前の歴史を美化し、帝国主義的な意図を持ったものではない、アジア防衛の意図を持った歴史を日本は歩んできたんだという風に、復古的な歴史観を復活させたい人たちが政権を握っているわけだから、とてもじゃないけれど日本は戦前の歴史を反省したとはアジアの諸国は認めていないと思う。具体的に提起される問題に関して、慰安婦の問題に関して、徴用工の問題に関してその程度の歴史認識の人たちが政治的に前面に立って応対している限り、この不幸な時代は続かざるを得ないと思います。

拉致問題もテーマの一つですので、ほんのちょっとだけ触れてまた話し合いの場にしたいと思います。拉致問題というのは1970年代に朝鮮民主主義人民共和国の特務関が行なった非常に不幸な事件であって、明らかに国家犯罪です。それは2002年9月17日の日朝首脳会談でも、当時は存命していた金正日総書記が小泉首相に、自分たちの特務機関が確かにやっていたと、これは非常に間違ったことで今後二度と繰り返すことはないという約束をしたわけです。それは当然のことだと思いますが、残念ながらそれ以降16年経ちますがこの問題に解決の見通しは立っていない。それは何故かというのは、2003年に刊行した『「拉致」異論』という本の中で僕の考えは述べました。これは要するに、日朝国交正常化というのが眼目の日朝首脳会談だった訳ですが、拉致問題が明らかになった衝撃が余りにも強すぎて日本社会は拉致一色の社会と化した訳です、あの16年前の段階で。あたかも日朝間には拉致問題しか存在しないというような世論操作が行われた。家族会の人たち、本当にお気の毒な人たちだと思いますし、その悲しみと怒りは強いものがあるので、その意思が尊重されてしかるべきではあるのですが、ただそれを国家としての外交のあり方に直接的に反映しては外交はできないと、僕は16年前にも主張したのですが、その後残念ながらその通りの結果となって現在に至っているということ。つまり、国交正常化というものを行っていないというのが余りにも酷すぎる。植民地支配からもう110年経ちました。日本が敗戦して朝鮮が自動的に解放されてから73年経ちました。そしてなおかつ国交正常化ができていないというのは、加害国としては余りにも恥ずかしい在り方です。まず、国交正常化を目指すのが日本の国家が、外務省が選択しなければならなかった。拉致事件の不幸な結果をみてなお、それを耐えて国交正常化を急ぐというのが、当然16年前に取るべき方針でした。小泉氏もあの時、平壌宣言を金正日氏と発表し、直後の記者会見を観れば、非常に耐えがたい事実も明らかになったけれども、これを基盤にして国交正常化に向かうしかないと小泉氏はあの段階の記者会見で語っていた。しかし日本に帰ってきてメディアの報道と家族会の怒りと悲しみが余りにも強すぎて、小泉氏はせっかく決意した国交正常化の路線を途中で放棄したと僕は思います。あの人は見て分かるように変わり身の早い人ですから、この世論の圧力と、世論が後押している家族会の方針に立ち向かっては負けるなと彼なりの独特な判断をしたのでしょう。僕はそれでもやるべきだったと思いますが、彼はもう嫌になったのですね。それで、やめてしまったのです。国交正常化の方針を貫くことを。

そのまま4年間首相をしていたけれど、拉致問題で北朝鮮に強硬な態度を取っている安倍晋三という男が世論の支持を受け始めている、メディアも大きく取り扱っている、じゃあこれに任せようという形で後継指名をして安倍晋三に託したわけです。安倍晋三の北朝鮮に対する強硬姿勢で自民党員の心を掴んで、これを総裁にしておけば選挙に勝てるという風に読んだ自民党員たちが2006年に総裁に選んだわけです。NHKはもうとんでもない放送局になっていますが、あの頃から総裁選挙の前には、「国民的人気の高い安倍晋三」と必ずニュースの時に言い始めました。これは誰が決めているんだろう、これはやばいなと僕は思いましたが、案の定、安倍晋三が選ばれた。幸いにして1年で辞めてくれたのですが、その後の様々な政治情勢の変化のお陰で2012年にまた復活を遂げてしまった。そして6年間、これだけでたらめな政治をやっていながら僕らは彼を追放する力を、政治的な力を、社会的な力を失うほど日本の社会は壊れたのです。

あのひとつひとつの色々なでたらめさをたくさん皆さんも挙げることができると思います。あの国粋主義的な籠池氏が教育をやっている学校に、安部氏があれだけ梃子入れした現実が有りながら、それを追及しても引きずり下ろすことができない。集団的自衛権を容認するというようなでたらめなことを閣議決定しても、引きずり下ろすことができない。2015年の戦争法案を通すというようなことをやっても、できない。これは様々な日本社会の変化がありますが、やはり拉致問題、中国との国境問題、歴史認識の問題、様々な問題を巡って近隣に敵を作る、韓国は敵だ、北朝鮮は勿論敵だ、中国も敵だ――という、近隣に、目につきやすい「敵」を作って国内を団結させるいう政策を上手く採用しているのです。ファシズムが昔の形で舞い戻っているとは必ずしも僕は言いませんが、これはファシズムの非常に特徴的な政策だと思います。これ程酷い「敵」はないという「敵」を近隣に作ることによって国内的な団結を取る。2002年の日朝首脳会談以降の北朝鮮の金正日支配、亡くなった後は金正恩支配というのは完全にそのようなものとして、メディアで戯画的に支配の異常さをこれでもかこれでもかという風にテレビや週刊誌や単行本が書き散らす、そのように作用され、今僕は出版社で仕事をしていながら書店に行くのがほとほと嫌な気持ち、なかなか入りたくない。それは雑誌コーナーにあれだけ隣国に対する嫌悪感を浴びせる、そうした雑誌が山のように積まれているから。最近は駅のキヨスクにさえ『月刊Hanada』とか置いているところがありますから。キヨスクなんて売れるものしか置かない、非常に見事な陳列をしている狭い空間だと思いますが、そこにあれ程までに酷い雑誌が置かれているというのは、それだけ売れているということを意味する訳ですから。今の日本社会は政権や財界やメディアが酷いだけではない、社会全体がかなりの程度壊れた時代になっていると思います。

その時、拉致問題というのは非常に巧みに利用されたな、問題を解決する為ではなくて、家族会のお気の毒な人たちの想いを呈しての、何とか解決するという方向ではなく、非常に異様な方向において利用する。僕と対談した、拉致被害者家族会の事務局長をいっとき務めた蓮池透さんという、被害者の薫さんのお兄さんが言っていますが、拉致問題を利用した卑劣な政治家たち、その筆頭に安倍晋三を挙げています。僕も完全にそう思います。日朝間の歴史を、関係をきちんと正常化するために努力するのではなくて、あの家族の人たちの辛さや悲しみを少しでも和らげるために問題を解決するために働くのではなくて、拉致問題ほど近隣の民族に敵意を煽って国内的な統一が図れる、そういう素材はないということで、安倍政権とその取り巻き連中、メディアを支配している連中は徹底的に利用し尽くして、16年間思い通りに社会を作りつつあるというのが僕の分析です。本当に辛い事件をこんな酷い形で利用する連中がいて、その酷さを家族会の人は蓮池お兄さんに続いてもっと分かって、早く安部を批判しろよ、と僕は思うのですが、残念ながら蓮池兄に続いて家族会からそのよう人は今に至るまで出なかった。僕はあの毅然たる横田早紀江さんがそのような立場を表明されたら一気に状況は変わるとずっと思っていたのですが、残念ながら変わらず、僕もなかなか横田早紀江さんとは直接的にお話できるような場を設定することができないものですから、そのままきています。

この拉致問題というのは日本と朝鮮の植民地主義時代の問題を解決するための色々な問題が詰まっている。もちろんこれは朝鮮の国家責任として謝罪し補償しなければならない大きな犯罪なのですが、それを私たちが主張するためには、日本がまだ謝罪も補償も済んでいない朝鮮国に対する植民地支配と、戦後過程においても、この解放されて以降73年何もしてきていないというその問題を、自分から積極的に解決するという方向性を示さなければ、これはいくら金正恩だってなかなか話し合いの席には着かないのではないかと考えています。

最後に、日本が今抱えている問題は、どうしても明治維新国家以降の植民地支配の問題と侵略戦争の責任の問題と未だに向きあわなければならない問題である、しかし右翼の人たちはいつまで言うんだ、もう100年も前のことだろう、70年前のことだろうと言いますが、先ほど言ったように世界基準は段々と植民地支配や奴隷制や侵略戦争の責任には時効はないんだという考え方になってきている。当事者がきちっと責任を明らかにし誠意を持った謝罪の仕方をしなければ、問題は終わらないのだということです。必要なことは、国家社会の、政府として社会全体としての心からの謝罪と補償であって、それを求めているのだろうと思います。今のような政権が続き、在特会のようなとんでもないスローガンを叫んで日の丸と旭日旗を掲げて民族的憎悪を煽るようなデモや集会が行われているような国である限り、まだまだこの問題は解決できないというのが私の考えです。とりあえずここで終わります。

 

◆質疑応答

【質問】『ソウルの市民民主主義』という本がでました。これが日本の中で私たちが地域でどういう運動をしながら力をつけていくかということのヒントになると思う。ソウル市民の運動の在り方と違うわけですが、国会前での政府に対する闘争も静まっていて全然やられていない。地域で力をつけながら、地域から変えていくことが必要だと思います。

【太田】僕はまだその本は読んでいないのですが気にしている本なので、今挙げてくださったこともあったのでこれから読みたいと思います。僕も西東京市という変な名前の街に住んでいますが、とりわけ原発事故以降や戦争法案の時、地元の人たちと色々な運動をやっているのですが、皆さんが抱えている問題だと思いますが、若い人の参加がなくて非常に一体どうしたものかと色々模索している最中です。地域の運動というのは確かに大事だと思っています。

【質問】実は映画を2回観ていまして最初観た時には私が拠点にしている鴨川ではなく東京とか京都とか都市で観たのですが、描かれている都市と先住民が住む周辺、その中の話ということで既視感を覚えた。長になったセバスチャンが問い詰められている中で逆切れ気味にお前達の為にやっているのに何が悪いんだという発言を聞いていると、今の長と同じような最終的には逃げるという発想を持つところが非常に似ていて、ただこの映画の中で違うのは先住民は葛藤しある種戦いをした、自浄作用、最終的には死ぬという選択を取った部分は違う。今の日本の地域は直前までで問題を問い掛けることがなく、なあなあで終わっていく。監督はキリスト教のサルべーションのような、先住民社会の中の救済として見せたのかと感じた。ある種都市と周辺に分断されていく境界の中での葛藤する中での答えは難しい。太田さんが映画を通してみてきたものをお聞きしたい。監督に聞く話かもしれないがチリのグスマンという監督はドキュメンタリーという手法で問題をえぐり出していくが、ウカマウは映画から事実を浮かび上がらせるという手法をとったが、二つ観ているがラテンアメリカ特有なのかもしれないが現実と非現実、映画と事実がごちゃ混ぜに見える部分があって、どちらにも感じた。グスマン監督は事実というフィルムを通して映画という表現をしているが、途中で映画的な脚本的な世界が見え、マジックリアリズム的なぐちゃぐちゃ感を感じたが、太田さんの考えとして何かあればお話いただきたい。

【太田】最初の質問に関してはうまく答えられそうもない。ホルヘ・サンヒネスは一時は先住民社会を理想化するというか浪漫化するきらいがあった。そういう意味では農村と都会、先住民社会と白人+メスティーソの社会のコントラストを強調して描いていた。どこに生活するかが決定的な影響力を持つことではあるけれども、時代の変化もあり、それは対照的に描く方法は取らない方がいいと思うという話し合いはしたことがあります。ちょっと質問の主旨と違うかもしれませんが。

時間がないので二番目は、パトリシオ・グスマンはドキュメンタリー作家ですが、ホルヘも『ただ一つの拳のごとく』という1983年の民政移管、軍事政権から民政移管への過程をドキュメンタリーで撮っているのです。僕は、彼はドキュメンタリー作家ではないと思っていいます。この映画の出来をみて、あなたはフィクション、どんなに現実的な歴史的素材をベースにして物語を構成しようと、フィクションで撮るべきだというのが僕の絶対的なアドバイスだったのです。彼はこれからもドキュメンタリーは撮るなと言い続けたい。その程度でいいですか。

【質問】後半の話の中でアフリカと韓国の徴用工の話が出てきていますが、入管法改正が話題になっていて、あれはソフトな意味で労働力を日本に持ってくるための改正なのかなと勝手に思っているのですがその辺はどう思われていますか。

【太田】あれだけ排外主義を基盤に持っている安倍政権が突然「外国人労働者受け入れ」と言ったのは今年の6月です。本省が法案を決めたのが10月12日くらい、いかにも焦っています。経団連あたりからはずっと言われ続けてきたのだろうけれど、酷すぎる。ろくに説明できないではないですか、このたびの国会でも。後でこういう法案を成立させてから詳しくは決めるなどと言っている訳だから、このまま強行されたらとんでもないことになると思う。酷い話だと思う。完全に雇用調整の安全弁として、調整弁として使おうとしている意図がありありだから、残念ですね。こんな法案が衆議院を通過してしまったというのは。今までのいわゆる実習生とか、水産業で働いているラテンアメリカの女性たち、アジアの女性たちたくさんいるけれど、そういう人たちが訴えている現実からしたら、そういう制度的なことをきちんとしないで、こんなでたらめなことでやるというのは、政府の在り方としては信じられないですけどね。残念ながらそれを覆すだけの力が僕らにはない、ということ。トランプが今、メキシコのティファナに押しかけたホンジュラスを中心とした9千人の人たちにああいう態度を取っているけれど。新自由主義経済政策というのは結局第三世界の人たちの生活を破壊して、その国で生きることが出来なくさせる。農業を潰すし、自由化でアメリカ合衆国やオーストラリアのような集約農業でやっている農産物が、第三世界の貧しい国の農産品を負かしていく。基本的に農民の多い国のそういう人たちが自分の仕事では暮らすことができなくなって、結局繁栄している国を目指す。日本だってそういう意味ではアジアにおけるそういう国である訳だけれども、ただ、あの政策は受け入れ対策としては酷すぎるからとんでもない摩擦が将来的に起きてしまう、そういう意味では恐ろしい政策です。

【質問】今までの質問とはだいぶ違いますが私自身はカトリック信者で子どもの時からずっとキリスト教でした。田舎から街に出てきて、そして自分のアイデンティティをどこに持ったら良いのかということが課題で、宗教とか色々考えるのですが、最近唄いを勉強し始めると何だか自分に亡者が乗り移る感じがして、今日の映画も死者の踊りみたいなことで興味があって来た。太田さんご自身はどのようなところにアイデンティティを持っていらっしゃいますか。

【太田】色々な質問を受けて来たが、この質問は初めてで、どう答えるのがいいのか。僕はあえて言えば、あまりアイデンティティを持たない。どこかに強烈なアイデンティティを持たないような生き方がどうしたらできるか。「民族」にも持たないし、客観的には否応なく持っているある種の存在形態はあるけれど、僕は国民という言葉は自分の言葉として使わないから、「国家」にも束縛されたくないから、そういう民族的なアイデンティティや国家的なアイデンティティ、さらに言えば、「男性」的なアイデンティティとかそういうものから出来るだけ離れたところで、どうやって生きれるかなあと、敢えて答えればそういうふうに考えて生きていく、それでよろしいでしょうか。

【質問】オウムの死刑が今年あったのですが、それについて太田さんの考え、もう一つ天皇が変わりますが、天皇についても太田さんの考えをお聞きしたい。

【太田】植民地問題から天皇まで、もう何でもわかったという顔をしてしゃべりますけど、ここまで来たらしょうがない。7月に2回に分けて行われたオウムの13人の処刑というのは大量処刑という意味では、1911年の大逆事件の12人に次ぐ大量処刑でとんでもない話であると思います。僕は死刑制度そのものに反対で、廃止運動を自分の重要な活動としてやっている人間ですので、そういう立場からひとつ批判があるのと、何よりオウムの時に強調したいのは殺された13人の人たち含めて、今のカトリックの信者の方の話ではないが、人生上の迷い、色々な救い、何かの境地をオウム真理教という一つの宗教に求めた何千人もの人がいて、彼ら特に処刑された人たちは、本当はあのような松本サリンとか地下鉄サリンとか無残な犯罪に手を染める以前に、彼らの宗教活動それ自体を止める契機が絶対にあったと僕は思っている。

それは1989年かな、坂本弁護士事件、幼い子どもとご夫婦が殺害された事件がありましたが、あれを食い止めるのはもしかしたら無理だったかもしれないけれど、あの時これはオウムの犯罪であるという証拠を彼らはたくさん残している。プルシャというバッジを犯行現場に誰かが落としてきた。それから今回処刑された一人の人物が、その後麻原氏と仲違いして、犯行から3ヶ月後に神奈川県警に子どもさんを埋めた場所を地図入りでバラしている。ところが、神奈川県警の捜査責任者はこれを徹底的にサボるのです。というのは、坂本弁護士たちが属していた弁護士事務所というのは共産党系の弁護士事務所で、神奈川県警というのはそれ以前に共産党幹部宅を盗聴した事件があって、その事件で弁護士事務所と真っ向から対立していた関係にあった。だから坂本弁護士事件が起こった後も、捜査責任者は内ゲバだとか金を横領して隠れたのだとか、全く逆方向の捜査情報を特定の新聞記者に漏らして、オウムに真っ向から捜査を行なうことを徹底的にねぐった。そいつはその後出世するんです。去年の財務省の連中と同じです。公務をきちんとやらなかった奴らが、目こぼしにあずかって出世を遂げていくというのが腐敗した政権下では当たり前のように為されている。オウムのことはまた別の政権下ですが。僕はあの事件をオウムの事件としてきちんと捜査していれば、松本サリン以降の事件は有り得なかった。

麻原氏は警察の捜査力を見くびったと思いますね。で、どんどん増長した。「国家ごっこ」をやった。いろいろな省庁を作って、国家権力を見くびって「国家ごっこ」をやって、あそこまで増長してしまった。その果てにあの犯罪を犯してしまった。あの処刑された麻原氏を除く12人は、あんな犯罪に手を染める前に、坂本弁護士事件まででやめることができたはずだ。処刑だけに焦点を絞ってあの事件を考えることは、僕は絶対に反対で、あの捜査を洗いざらい、捜査の不誠実さ、間違った方針でやったということ自体を暴かなければならないと思っていますが、なかなかやらないですね。これはある程度明らかになっているのですが。

それから、天皇。僕は憲法9条というのは非常に大事で、ありきたりの国家を超える、軍隊を持つのが当たり前だと、戦争するのが当たり前だと思う人が世界中で政治をやり、それに幻惑されて人々が思い込んでいるわけですから、そういう意味ではありきたりな国家の枠を超える水準を差し示しているので、9条は絶対大事にしたいと思い続けているが、その憲法が非常に奇妙で、1条から8条までは象徴天皇制の規定なのです。そのあと軍隊不保持、戦争放棄ときてそのあと基本的人権になる。本当に矛盾に矛盾を重ねている憲法ですが、1条から8条までは無くすべきであるという意味では僕は改憲論者です。1条から8条までを無くすべきだということは、わずか17人だか18人になっている皇族にあのような、不幸な人生を送らせては可哀想だと、慈悲の立場から言っているのです。あの人たちに人間としての権利を戻してあげましょう、だから僕は「王殺し」はしなくていいのです、処刑はしなくていいのです。フランス革命は処刑したし、ロシア革命も300年間続いた皇帝を処刑したけれど、そんなことをする必要はない、あの人たちに人間的な生活を取り戻してあげましょう、そうしたら雅子さんもあんな精神的に苦しまず自由に生活できるはずである。そういう立場から見たら天皇制はなくすべきであるというのが基本的な立場です。

【質問】今日はとても勉強になりました。非常に心に残った言葉が、帝国主義

戦争中にしてきたことに対しての、「時効がない」という言葉が非常に心に響いたのですが、私は今専門学校や大学で社会福祉学を担当している教員ですが、二十歳前後の学生と触れていて、こういう事をどう伝えていくかが一番課題です。実際、ここにも学生の年代の人は来ていないというところで、皆さん方が居なくなってしまったら、次、誰が伝えていくのかという不安を感じながら教壇に立っています。私は太田さんの世代と学生の世代の間よりちょっと上の世代だと思いますが、繋ぎ手としての質問として、どうしたら若い世代がこういう事に興味を持ってこういう所に来る、こういう活動を引き継いでいける、いって貰えるのか、その辺の課題というか、何故若い人がなかなか続いていかないのか、そして若い世代がこういうことに興味をもつにはどうしたら良いか、ということをどのようにお考えですか。

【太田】正直、僕にもわからないことですが、僕も前、学生運動といってもそんなに激しくなくてもいいのだけれど、15年くらい前まである程度学生運動をやっている学生たちがいる時には、新入生歓迎会や秋の学園祭には色々なところに呼ばれることもあった。ところがここまで学生運動が死滅してしまうと僕を呼んでくれる学生がいなくなって、かえって大学の教師が時々呼んでくれたりしますが、学生たちは自分から動こうとしない。何か手伝わせようとするとアルバイト代を請求するとか、教師が嘆くのです。

僕が付き合ってきてある程度若者が参加しているところは「ピースボート」です。ピースボートは順繰り順繰り色々な若い人が加わって、30年以上経ちますね。1980年代前半からでしたから、僕も一度だけ1週間くらいカリブ海を乗ったことがありますが、ただ乗っている人たちはやはり中高年です。スタッフで働いている人は若いが多いけれど、それは当然そうですよね。全部廻ると3ヶ月間で、100数十万払う、お金の額から自由になる時間、中年の女性たちですと保母さん、薬剤師さんなど、引く手あまたの業種の女性が乗っていることがあるけれど、ピースボートもスタッフだけは若い、だからあれが一つのヒントと言えばヒント、何億円かけてひとつの船を動かすのは大事業な訳で、色んな国の人たちと色んな世代の人たちと付き合うことになる。ピースボートのポスターは全国あらゆる所に貼ってある、あれはああいう働きをしたら1時間いくらでお金が貯まっていく、その貯まった額で船に乗れる、というような非常にうまい考え方をしている。あれを作り上げていく過程でみんなが能力を発揮しなければならない訳で、発案者たちはうまかったなと思います。僕もうまく答えることは出来ないけれど、こんな時代でインターネットが個人の生活にまで浸透してきて、あれは1995年くらいからですから四半世紀くらい、20年以上経つわけです。僕も技術的にはよくわからないまま、ブログもTwitterもFacebookもやっていますが、それで繋がってくる関係というのはどこまで若い人がいるかどうかちょっと顔は見えないけれど。いない?(会場から、FacebookもTwitterもやっている層の平均年齢が高い、との声あり)そうですか、これもダメだね。僕がやっているのだから高いのだろうなあ。なかなか展望ないですね。僕らが死に絶えたらどうなるのでしょう。でも、諦める訳にはいかないしねえ。すみません、ちゃんと答えられません。

 

司会

延長できないのでそろそろ終わりにしたいのですが、まだまだたくさん伺いたいこともありますし学ばなければならないこともあります。また1月27日、第二回目のウカマウ映画上映と講演会がございます。

 

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